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親父の死を通して




4月7日に親父が死にました。

沢山の人に見守られながら静かに息をひきとりました。



2021年1月に膵臓癌が見つかり、6月に手術で膵臓の半分と脾臓と左の副腎を摘出し、一時は生活を普通にできるまでには回復しました。

しかし、7月に膵臓の近くのリンパ節癌が再発し、入院生活の放射線治療を始めました。

25回の放射線治療を1ヶ月かけて行い、家に帰ってきました。

帰って来たものの、放射線治療による副作用で腸骨が壊死し、左足の痛みを抱えながらの生活になりました。

そして、12月に膵臓癌とリンパ節癌が再発し、さらに、縦隔にも癌が見つかりました。

縦隔に癌ができたため、食事が通りが悪く、最後は水分も通りにくくなっていました。

この時点で、体力も落ち食事も入らず治療する気力も体力も無くなっていました。

なので、抗がん剤治療はせず、自宅での疼痛コントロールによる緩和ケアを選びました。

その後、3ヶ月後、2022年4月7日を迎えました。


姫野は、家族も認めているほど、親父に厳しくされていました。

しかし、それが愛情であると知りながら認めきれないでいました。


これを認めるようになったのは、姫野の息子「煌太郎(おうたろう)」が生まれて、子どもを育てるようになってからです。

死んでから母から聞いたのですが、「祐輝」という名前は親父がつけたそうです。

「煌太郎」という名前は、姫野がつけました。

子どもに名前をつける時、責任と期待を感じたことを覚えています。


煌太郎を怒る時、怒ってしまった反省と、煌太郎への期待が同時に起こります。

煌太郎を甘やかしてしまった時、笑顔を見れた喜びと、我儘になってしまわないだろうか?という不安が同時に起こります。

今なら当時の姫野に「子どもと一緒に成長できる親になれ」と言ってやりたいです。


親父が闘病を始めた年の9月に家族で魚釣りに行きました。

夜中のうちに釣り場まで車で行ったのですが、その道中、みんなが寝ている中、助手席の親父と話をしました。

姫野と親父の話に、今までとは違うところがありました。


親父の「否定」がなくなっていたのです。


家族のこと、仕事のこと、お金のこと、何かにつけて否定から話し始める親父でした。

心配からのこととはわかっているのですが、姫野はそれが嫌でした。


それが、「否定」ではなく、「そうか」と沢山に言ってました。


息子が言ったことに「そうか」という難しさも、姫野は知っています。


親父が死ぬ前日、意識がなくなる時間がありました。

そのタイミングで、家族や親戚に連絡を入れ、集まりました。

みんなもう最後だと思ったそうです。

その連絡は、島原にいた姫野にもきました。

急いでホテルをチェックアウトして、3時間かけて帰りました。

すると、その途中で、意識が戻り、姫野が着いた時には普通に喋っていました。


姫野「来たばい」

親父「待っとったぞ」

姫野「なんか言いたかことのあったと?」

親父「なーんなか」


このやりとりが最後でした。


しかし、この少ない会話の中に姫野の物心付いてからの記憶にない初めてのことがありました。

「来たばい」と声をかけた時、親父から手を握ってきたのです。

たぶん、小さい頃はたくさん抱いて貰い、手を引いてもらったと思うのですが、姫野が生まれて、1年後、年子で妹が産まれ、それから3年後に弟が産まれたので、妹と弟が抱かれたり、手を繋いでいるのは記憶にあるのですが、自分が親父とスキンシップをしている記憶がないのです。

だから姫野としては、初めて親父の手を握った気持ちでした。

感想は、「大きくも細い」です


また、「なーんなか」という言葉ですが、方言で「何もない」という意味です。

言いたいことが、何もないというのは寂しくもありますが、今思うと「悔いはない」という意味にも思えます。


親父に心配されないということは、ある意味、一人前になったことを認めてもらえたのかなとも思います。


人の「死」は、沢山の気づきをくれます。


姫野も死んだ時、沢山の気づきを残せる人になりたいと思います。

そのためにも、楽しく生ききろうと思いました。


実は親父から学んだことは他にもあるのですけど。。。。。また今度。

 
 
 

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